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山口地方裁判所 昭和31年(わ)133号 判決

被告人 岡部保

大七・七・一二生 無職

主文

被告人を

判示第一、の罪につき、懲役四月に、

判示第二、第三、の罪につき、死刑に、

処する。

右第一の罪(住居侵入等)についての勾留状による未決勾留日数中百二十日を右懲役四月の刑に算入する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(犯罪事実)

被告人は

第一、昭和二十七年七月中頃の夜、窃盗の目的で、山口県吉敷郡大内町高芝、食料品雑貨商、杉山正二方居宅に侵入し、金品を物色中、家人に発見せられて逃走し、窃盗の目的を遂げることが出来ず、

第二、昭和三十年六月中頃、大阪市天王寺区逢坂上之町四八、生越好一方前路上で、大阪市所有の、人孔鉄蓋一枚(時価千五百円相当)を窃取し

第三、元来、本籍地である山口県吉敷郡大内町大字仁保下郷で農家に生まれて、両親に育てられ、本籍地の尋常高等小学校を卒業した後、山口市、萩市、福岡県等に於て、電工として働き、昭和十四年現役兵として広島工兵第五聯隊に入隊、満洲、中支、南支、仏印等の各地で戦闘に参加し、昭和十八年八月内地に帰還、除隊となつた後間もなく妻を娶り、山口県動員課嘱託として徴用工員の訓練助手を勤めたこともあるが、昭和十九年七月山口県巡査を拝命し、当時の堀警察署に勤務して居る中、約三ヶ月で再び召集を受けて軍務に服し、昭和二十一年三、四月頃内地に復員して堀警察署の原職に復した。

次いで昭和二十一年六月警察官の職を辞し、その頃実父が経営していた製材業や農業の手伝をしたが、間もなく経営に行きづまり山口市湯田の建設会社で働く中、他の女と懇ろになつた為妻と離婚し、その後は山口市、福岡県等に於て製材職人、炭鉱夫などとして働いたが、いずれも永続きせず、その間窃盗罪に問われたこともあつたが、遂に昭和二十八年四月無断家出して郷里を出奔し、それからは、人夫、鳶職人などとして、神戸、姫路、和歌山等の各地を流れ歩き、昭和二十九年八月から、大阪市天王寺区、天王寺公園内に小屋掛けなどの仮住いに起居し、中田いと、福井シゲノと同棲し乍ら、所謂バタ屋生活に転落してその日を送つていたものであるが、商売資金を手に入れようとして、昭和二十九年十月二十日頃、郷里山口県に帰り、数日間所々を、さまよい歩いた揚句同月二十六日午前零時頃、同町大字仁保中郷二九一五、農業山根保方堆肥場にあつた唐鍬(証第二号)を携えて、同人方母屋に到り、土間物置内の金品を窃取すべく物色中、同人の妻美雪(当時四十二年)に気付かれ、誰何されるや、茲に同家家人を殺害して金品を強取しようと決意し、奥六畳の間に入り、起き上ろうとする同女の頭部を所携の右唐鍬を振つて乱打し、続いて、その傍らに就寝中の保(当時四十九年)及び同人の五男実(当時十一年)、隣室表下六畳の間に就寝中の三男昭男(当時十五年)四男一吉(当時十三年)の各頭部を順次同様乱打し、次いで納戸四畳半の間に入り、起き上ろうとする老婆トミ(保の母、当時七十七年)を押し倒し、その頭部を同様乱打して、再び保夫婦の寝室に引き返し、尚も同人の頭部を同様乱打して、右六名に夫々瀕死の重傷を負わせた上、同室の本籍の抽斗にあつたチヤツク付財布(証第九号)内及納戸にあつた箪笥の小抽斗内から合計約七千七百円位の金員を強取し、最後に台所にあつた出刃包丁(証第三号)を持ち来り、之で右六名の頸部を順次突き刺すと共に保夫婦及びトミに対しては、その胸部をも突き刺し、以上の各損傷による失血の為夫々死に致して、殺害した上、保夫婦の寝室に掛けてあつた洋服上衣一枚を強取し

たものである。

(証拠の標目)

判示第一の事実は

一、杉本正二の司法警察員に対する供述調書(記録第三冊、一〇一二丁以下―三、の一〇一二と略書する。以下同断。)

一、木本毅の司法警察員に対する供述調書(三、の一〇一九)

一、津森精人外二名作成の捜査見分書(三、の一〇二五)

一、被告人の検察官に対する昭和三十年十月二十九日附供述調書(三、の一〇八一)

一、被告人の当公廷に於ける供述

を綜合して

判示第二、の事実は

一、小枝英一提出の被害届(三、の一〇四五)

一、下垣菊太郎の司法警察員に対する供述調書(三、の一〇四六)

一、被告人の当公廷に於ける供述

を綜合して

判示第三、の事実は

(1)  医師藤田千里作成の鑑定書三通(昭和二十九年十一月二十六日附一通、同月二十日附二通)(一、の一六七、一の一八七、一、の二〇三)

(2)  医師田中清人作成の鑑定書三通(いずれも昭和二十九年十一月十五日附)(一、の二一三、一、の二四六、一、の二六七)

(3)  裁判所が昭和三十一年五月二十八日施行した検証の検証調書(一、の七五)

(4)  検察官が昭和三十一年三月二十三日施行した検証の検証調書(二、の七八六)

(5)  司法警察員峠坂三郎が外三名の補助者と共に昭和二十九年十月二十六日施行した検証の検証調書(二、の四九六)

(6)  司法警察員吉坂千稔が右同日施行した検証の検証調書(二、の五九三)

(7)  第二回公判調書中、証人須藤玉枝の供述記載部分(一、の一二二)

(8)  同公判調書中、証人西村肇の供述記載部分(一、の一三九)

(9)  同公判調書中、証人木村完左の供述記載部分(一、の一四八)

(10)  第三五回公判調書中、証人堀山栄の供述記載部分(五、の一七九八)

(11)  第三六回公判調書中、証人須藤友一の供述記載部分(五、の一八二一)

(12)  堀田国雄の司法警察員に対する供述調書(二、の七四一)

(13)  田村一市の司法警察員に対する供述調書(二、の七四四)

(14)  松島徹の司法警察員に対する供述調書(二、の六六八)

(15)  山本高十郎に対する証人尋問調書(一、の三九六)

(16)  第六回公判調書中、証人中田いとの供述記載部分(二、の六九九)

(17)  中田いとの検察官に対する供述調書(四、の一四三七)

(18)  第三回公判調書中、証人三好宗一の供述記載部分(一、の三〇九)

(19)  第二九回公判調書中、証人三好宗一の供述記載部分(四、の一七一〇)

(20)  第三〇回公判調書中、証人山本博子の供述記載部分(四、の一七四二)

(21)  昭和二十九年日赤山口病院耳鼻科カルテ一冊(証第十八号)

(22)  第五回公判調書中、証人西村みどりの供述記載部分(二、の六六二)

(23)  第三回公判調書中、証人奈良定菊江の供述記載部分(五、の一七八一)

(24)  第三一回公判調書中、証人吉富豊彦の供述記載部分(五、の一七五三)、及び第五八回公判に於ける同証人の供述(八、の三〇七五)

(25)  第三一回公判調書中、証人藤井マサ子の供述記載部分(五、の一七五九)

(26)  日記帳(証第六号)

(27)  裁判所が昭和三十五年七月三十日実施した検証の検証調書中第四項(五、の二一九二)

(28)  第三回公判調書中、証人向山寛の供述記載部分(一、の三二〇)

(29)  向山寛の検察官に対する供述調書(三、の一〇八七)

(30)  第三回公判調書中、証人小田梅一の供述記載部分(一、の三二七)

(31)  小田梅一の検察官に対する供述調書(三、の一〇九一)

(32)  第三回公判調書中、証人堀山益雄の供述記載部分(一、の三四三)

(33)  同公判調書中、証人吉広健一の供述記載部分(一、の三四八)

(34)  藁縄の所在に関する報告書計十五通(昭和二十九年十一月六日附を初めとし、同年十二月二十二日附迄)(三、の一一〇一―一一四一)

(35)  第四四回公判調書中証人横山哲也の供述記載部分(六、の二三六六)

(36)  第三七回公判調書中証人山口信の供述記載部分(五、の一八八二)

(37)  第四五回公判調書中、証人藤村幾久の供述記載部分(六、の二四〇八)

(38)  藁縄(証第四号)

(39)  橋本照応作成の鑑定書(二、の六一八)

(40)  受命裁判官による証人小崎時一に対する尋問調書(六、の二五〇六)

(41)  鈴山乙夫作成の鑑定書(二、の七六〇)

(42)  第一〇回公判調書中、証人山口信の供述記載部分(三、の九二六)

(43)  出口巧の司法警察員に対する供述調書(二、の七四八)

(44)  唐鍬(証第二号)

(45)  出刃包丁(証第三号)

(46)  第二回公判調書中、証人山本彦蔵の供述記載部分(一、の一五八)

(47)  ビニール製財布(証第九号)

(48)  国防色ズボン(証第一号)

(49)  福井シゲノに対する裁判所の証人尋問調書(一、の四〇七)

(50)  第四三回公判調書中、証人山口信の供述記載部分(六、の二二七六)

(51)  熊本清外三名作成の捜査報告書(昭和三十一年一月十日附)(六、の二二四五)

(52)  世良信正作成の領置調書(昭和三十一年一月七日附)(六、の二二五二)

(53)  第四回公判調書中証人西田啓治の供述記載部分(二、の四八一)

(54)  証人吉川梅治に対する裁判所の証人尋問調書(一、の四二八)

(55)  被告人作成の鉛筆書和歌の紙片(証第一九号)

(56)  鉛筆書手紙(証第二六号)

(57)  第六回公判調書中証人渡辺サトノの供述記載部分(二、の七一五)

(58)  被告人の検察官に対する供述調書七通(昭和三十一年一月十三日附、一月十四日附、一月二十七日附、二月七日附、二月八日附、二月十五日附、二月十九日附)(四、の一三一七・四、の一三四六・四、の一三五六・四、の一三六八・四、の一三八七・四、一三九三・四、の一四〇一)

(59)  検察官録取の録音テープ三巻。(その存在及採録内容)(証第一四号)

(60)  証人小島祐男の当公廷(第五〇回公判)での供述(七、の二八八二)

(61)  第一一回公判調書中証人橘義幸の供述記載部分(三、の九五六)

(62)  同調書中証人松田博の供述記載部分(三、の九六一)

(63)  同調書中証人小島祐男の供述記載部分(三、の九六五)

を綜合して

夫々之を認める。

尚右第三の事実については、右認定の理由につき、次に主な点につき更に説明を加えることとする。

一、先づ右に掲げた各証拠の中、最も直接且重要なものは、被告人の検察官に対する供述調書七通―前掲標目(58)―である。而して本件に於ては、被告人の警察官及び検察官に対する自供調書に記載された供述の任意性並に信憑性が問題となり、検察官、被告人(及び弁護人)の双方から夫々証拠の申出があつて、之が取調べをした次第である。先づ右任意性について、被告人は之を否定し、調書記載の通りの供述をしたことは相違ないけれども、該供述は、警察に於ては取調官が強制拷問を加えて、予め捏造した事実に合致するように強いて供述させたものであつて、被告人が任意になしたものではなく、又検察庁に於ては右のような有形的な強制手段は加えられなかつたけれども、その取調べは右の如き警察での自供調書を基礎とし、検察庁でもその通りに述べなければ再び警察署の留置場に戻して警察官に取調べをさせる旨告げて間接的に強制された為、被告人としては警察官に供述したことを今一度その通り繰り返す他なかつたものであるから、之亦結局任意に出でた供述ではない。と主張する。

一、検察官に対する被告人の供述調書につき検討するに、検察官は、警察に於ける調書を参考にしたことは勿論と考えられるけれども事件関係全般に亘つて、更めて詳細な尋問をなし、被告人又逐一之に対し極めて詳細に、或は之と異つた供述もなして居ること、前掲(60)(61)(62)(63)の各証拠によれば、検察官の取調べに際しては、被告人主張のような心理的乃至間接的強制は加えられていないことその他取調べの方法、時間等に於ても決して無理のなかつたこと前掲(59)の録音テープの録音の方法、内容及び之等から認められる取調べの状況等を綜合するときは右検察官調書記載の供述は、いづれも十分任意性のあるものなること洵に明瞭である。

次に検察官調書の信憑性について考えるに、該供述の内容には犯罪実行者でなければ到底語り得ないような詳細な供述があること、被告人は前掲(4)の検察官の実地検証の時迄本件犯行現場及びその附近に行つたことはない旨当公廷で述べて居るに拘らず、右検証調書の記載によれば、被告人が検察官、検証補助者等他の立会人の先頭に立つて自分が事件当時歩いた道順、関係場所を自ら案内し、被害者方屋内でも被害者等の位置、物の場所、その他犯行の詳細につき自ら進んで、その地点、行動の順序等を現地につき指示して居ること、自供後の心境を表わす為書いた前掲(55)(56)の章句の意味等を綜合し、その他の前掲各傍証と比照するときは、検察官調書に十分の信憑性のあることを認めることが出来る。被告人は取調官が予め事実を組み立て、それに合う様に供述を誘導したもので、右未知の現場での指示も、詳細な供述も、警察で何度も繰返し述べせられ、言わば復習に復習を重ねていた事柄であるから、その通り述べることが出来たものであつて、その様に述べることによつて取調官に迎合的態度を示す為あの様な指示、供述作歌、作文、がなされたものであると弁解主張するけれども、検察官調書の任意性前説示の如くである以上、又警察に於ける取調べに於ても特に拷問と目すべき事実は認め得られないこと後述の如くである以上、右弁解は合理性を欠き、到底之を認めることが出来ない。

一、以上説示の通り、前掲(58)の検察官調書、(59)の録音テープの内容はいずれも、その任意性及信憑性に於て、夫夫欠ぐるところなきものであつて、之と前掲各補強証拠とを綜合すれば、判示第三の強盗殺人の事実を認めるに十分である。

(尚警察に於ける自供について、被告人自身の当公廷での供述は勿論、弁護人申請の証人、熊野精太郎、竹内計雄、西村定信の各証言は被告人主張の様な取調べ状況を推知させるかのようであるけれども、取調べに当つた各警察官の証言と対比するときは、被告人主張のような所謂拷問と目すべき取調べ方法の行われた事実は之を認めることが出来ない。

然し乍ら検察官提出の警察官録取の録音テープ三十巻を静かに傾聴するとき、部分によつて変化はあるが、概して自供の初期段階に於ける供述の状況雰囲気(言葉に現われていることで疑問を残すものの一例―第六巻中被告人の「糞ツ(或は畜生ツ?)」なる小独語、第二十九巻中、取調官の「膝を組んでもよい」旨の言葉―之等の言葉の持つ意味は色々に解釈出来、必ずしも明らかではないが)、取調べに当つた警察官山口信の「調べは夜十二時以後になることはなかつた」旨の供述―(記録第三冊九三八丁)―からは反面、夜も十二時迄は取調べを行つたであろうことが推知されること、等を綜合すれば、右取調べに際し、本件最後の容疑者としての被告人に対する追求が急であつた為多少の無理があつたのではなかろうかとの一抹の疑念を存せざるを得ない。而して供述の内容が真実であるか否かは固より別個の問題であつて、その内容の如何を問わず任意性について多少でも疑問の存する以上之を証拠とすることが出来ないことは法の明定するところである。

尚本件に於ては、録音に表われた丈けでも、右と反対に、極めて冷静、積極的、合理的に述べて居ると思われる部分も多々あり(形に表われた一例―第六巻中、被害者中子供をも殺したことに関し述べる所、心なしか被告人の声一寸つまり、うるむ感じ)従つていづれの部分が然るかを劃一的、截然と区別することは困難であると共に、証人木下京一の供述(第五〇回公判調書中同証人の供述記載部分一七、の二九〇六)によれば警察に於ける自供調書の録取作成と、右警察に於ける録音の採取とは別個の取調べの機会に為されたものであることが明らかであるから、右任意性についての疑問が警察官調書のどの分のどの部分につき存するものと言えるか確定することが出来ないので、結局警察官調書全部につき任意性に疑あるものとせざるを得ない。

因つて本件に於ては、被告人の自供を録取した警察官作成の供述調書は一旦証拠として取調べがなされただけれでも、その後全審理の結果、その内容の信憑性の有無はさて措き、いづれもその供述の任意性に疑があるとの結論に達したので、之を証拠としないこととする。)

一、前掲(1)(2)は各被害者の死因、創傷の部位程度、使用推定兇器の種類認定の資料。

一、同(2)乃至(6)によつて現場及関聯場所の状況、発見直後の死体証拠品の状況が明らかである。

一、同(7)乃至(11)は事件発覚当初の模様と各物証の存在とその所在場所の証拠。

一、同(12)(13)によつて、証拠品の唐鍬(同(44))が被害者方の物であることが認められる。

一、同(14)は被告人が、昭和二十九年八月に二回、九月に二回、十一月に三回、十二月に二回大阪で血液銀行に売血に行つて居るのに、十月には一度も行つていないことが認められ(被告人は十月にも供血申込には行つたが、血が薄くて不合格だつた旨弁解して居るが、第四九回公判に於ける被告人自身の供述―七、の二七一一―も結局「よく覚えません」と曖昧な言葉に終つて居ることや、右以外は売血に行つた日の間隔が最大二十二日で十日以下が多いのに九、十月にかけては三十九日も空白であることを綜合すれば被告人の右弁解は採用し難い。)同(15)(16)(17)と綜合して被告人が本件犯罪の行われた当時、それ迄生活していた大阪市に居なかつたことが推認される。証人西村為男、同西村君子、の各証言の記載(四、の一六七八、四、の一六九〇)は之に反する趣旨であるけれども、その正確性には疑問があり、前記明白な諸証拠に基く認定を覆えすには足らない。

一、同(18)乃至(26)により、本件犯罪の行われた直前たる昭和二十九年十月二十一日の午後、被告人が豊栄製材所を訪れ、三好栄一と面談したことがある事実を確認するに足る。この点につき当時同製材所に居たと思われる吉富豊彦等二、三の者が、その時被告人を見なかつたと述べて居ることを挙げて、弁護人は右認定に対する反対証拠としているけれども、右(27)の検証の結果明らかな同製材所の当時の建物、人員配置の状況、立会人三好宗一の指示説明によつて明らかな同人と被告人との面談の地点、両名の間隔等を綜合すれば、三好宗一が被告人を見誤ることは考えられないし、又他の人が被告人を見ていないのは常に外来者に注意していない限り気がつかぬためであることが当然推測されるので、前認定を覆えすには足らない。又被告人は豊栄製材所を訪れたことはあるけれども、それは右の日時ではなく、昭和二十八年頃の四月頃のことであると述べて居るが、それが前認定の日時であることは、右(21)(26)の客観的正確さに富んだ証拠によつて裏付けされているのであるから被告人の右弁解は到底採用の限りでない。

右認定の事実と、次項説明の向山製材所の件とを綜合し、当公廷では被告人自身当時大阪を離れていないと弁解するに拘らず真実は本件犯罪時直前山口市及その近辺に帰つていたことが明らかでこのことは、被告人自供調書の重要な裏付けと言うことが出来る。

一、右(28)乃至(31)の証拠により、本件発生の二、三日前頃に山口市石観音の向山製材所に被告人が向山寛を訪ねて話を交わした事実が明らかである。この点につき、小田梅一の公判廷での証言中、同人が向山寛から右のことを聞いた時期につき「岡部のことが新聞に出てから・・・・・」と述べており、一見時期が違うのではないかと思われ(被告人が大阪で逮捕されたのは昭和三十年十月のこと故)又向山が被告人を知つたのは権現山の石川木工所であると言うのに、当の石川は証人として之を否定している、けれども、仔細に検討するに、右(31)によれば小田梅一が向山製材所に傭われていたのは、昭和二十八年十一月頃から二十九年三月頃迄と二十九年十月二十一日頃から三十年一月末頃迄の間で、同人は被告人のことを向山から聞いたのは右後の場合で「初めは臨時傭としてその内常傭として使うかも知れぬとのことで働いていた時のことで六人殺しの号外を見た時より少し前の日だつたと思う」旨述べて居り又右(30)に於ても右のことを記憶している拠り所として「岡部は刑務所で囚人同志として一緒に製材の仕事をして自分より腕が上と知つていたので同人が自分と一しよに仕事をするようになつては困ると思つた」旨の特殊の事情を摘示して居る(被告人が逮捕された時なら、小田は最早向山製材所には居ないし、又被告人が逮捕された以上右のようなことを小田が心配する必要は全くない)ことから見ても時期は矢張り「仁保事件のあつた二、三日前」のことであつて、この時期に向山、被告人面談のなされた事実は相違なく、向山が被告人を知り合つた場所が果して石川木工所であつたかどうかは右認定を左右するには足らない。

一、同(32)(33)により、事件直後、被告人が逃走途中二人の男に出会つた旨の自供の裏付けが認められる。弁護人は、そのような場合は犯人ならば人影を見れば途端に逸早く踵を返して逃げるか又は身を隠すかする筈で、オメオメ人と行き違う様な危険を敢てする者は居ないと主張するけれども、右証言記載によれば、暗い所で山の出端の辺で突然行き会つた旨を述べており、双方共突嗟の場面であつたことが明らかで、弁護人主張のような態度に出ることは却つて危険であり、その余裕もなかつたと考えられるので、道の端を顔をそむけて足早に通り過ぎる他なかつたと見ることは決して不自然ではない。

一、右(34)乃至(39)によれば、被告人自供の(38)の藁縄が防長新聞の梱包用に使われたものかどうかは必ずしも明らかでないけれども、少くとも右縄の出所については、農林十号の藁、栗原式製縄機による製品との一応の鑑定結果を基礎として近辺を八方手配して捜査を行つたもので、被告人の自供によつて甫めて八幡宮横の農小屋にあつたことを知り得たものであつて、被告人の主張するように捜査官が先づ右出所が解つて之を以て被告人の自白を誘導したものでないことが明らかである。

一、右(40)乃至(43)によれば、証人小崎時一は結局被告人自供の地下足袋を買つたという頃、月星印地下足袋を売つてはいなかつたこと、同人方は名古屋駅の裏を出て行くと左側であつて右側ではない旨述べてはいるが、被告人自身当時飲酒していて判然覚えないと言い(六、の二五二三)、その辺りで買つたことは認めて居り(六、の二五二五裏以下)要するに本件犯行現場に残つていた足跡は十半か十七の月星印地下足袋の跡であること、被告人が名古屋駅の裏で地下足袋を買つたことは事実であつて買つた家その家の所在に記憶違い等あつても、右の事実を左右することは出来ないし、又この点被告人の自供があつて甫めて捜査がなされたことも之によつて明らかである。

一、同(46)(47)は前出(7)(9)と綜合して被告人自供の強取金員の裏付である。

一、同(44)(45)は使用兇器

一、同(46)及至(52)は国民服様の上衣丈け取つた旨の被告人の自供、被害者が国民服様のものを生前着用していたとの親族近隣よりの聞込み、形見分けを貰つた家全部を捜査した結果、木村完左が国民服のズボンを形見分けに受領し居るも上衣を受領した者は親類中捜してもなかつたこと、木村完左提出の右ズボンを警察官が被告人に示し、被告人が強取した上衣は右ズボンに似たものであることを指摘したこと、福井シゲノが本件後被告人が国防色の将校服の様なものを持つて居たが、それを自分が焼いたが、その右側の横のポケツトの所に血のシミの洗つた様な跡があつた旨述べていることが明らかで、被告人自供の国民服上着強取の点の裏付けとなる。

一、同(16)(53)(54)右(49)によれば被告人の自供を裏書きするような状況や被告人の言動が認められる。

一、同(57)の渡辺サトノの証言につき、弁護人は犬の啼くことは松茸泥棒がいた場合でも有りうるし、該場所は斯る者の出没する可能性ある所だから、右証言は被告人自供の裏付たり得ない旨主張するが、右の証言によれば仁保事件の号外の出た前夜三時頃のことで当夜は証人方の犬が峠を行きつ戻りつして啼き眠れなかつた旨述べて居り、いつもの啼き方と異つた状況だつたことが推し得られる。

以上により、被告人の検察官に対する自供につき、その真実性を担保するに十分な裏付があると言わねばならない。

(前科)

被告人は昭和二十七年参月十七日山口簡易裁判所で窃盗罪により懲役六月に処せられ、該判決は同年八月一日確定し、当時その刑の執行を受らけ終つたもので、右の事実は被告人の検察官に対する昭和三十年十月二十九日附供述調書(三、の一〇八一)及び被告人に対する前科調書(三、の一〇六一)によつて明らかである。

(適条)

被告人の判示所為中第一の住居侵入の点は刑法第百三十条、罰金等臨時措置法第三条に、窃盗未遂の点は刑法第二百四十三条、第二百三十五条に、該当し、右両者は手段結果の関係にあるので同法第五十四条第一項後段第十条により一罪として重い窃盗未遂罪の刑に従い処断することとし、その刑期範囲内で被告人を判示第一の所為につき懲役四月に処し、刑法第二十一条を適用して主文掲記の未決勾留日数を右本刑に算入する。(第一の罪は前示前科に係る罪と刑法第四十五条後段の併合罪であるから同法第五十条により未だ裁判を経ない右第一の罪につき更に処断するものである。

被告人の判示第二の所為は刑法第二百三十五条、第五十六条、第五十七条に、同第三の各被害者に対する所為は夫々刑法第二百四十条後段に該り、以上は同法第四十五条前段の併合罪であるところ、右第三の各被害者に対する罪については情状によりいづれも所定刑中死刑を選択するのを相当と認めるので、同法第四十六条第一項第十条第三項に従い、犯情の最も重いと認める山根実に対する罪についての死刑を択び他の刑を科しないこととし結局判示第二、第三の所為について被告人を死刑に処する。

尚訴訟費用の負担については刑事訴訟法第百八十一条第一項本文を適用して、主文の通り判決する次第である。

(裁判官 永見真人 竹村寿 安田実)

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